教育改革2020

どうする・どうなる!?2020年。保護者視点で分析する教育改革。調べてわかったことを中心にまとめています。

地域にひらかれた学校のリスク

 

 日本を代表する繁華街にある公立小学校が有名デザイナーズブランドの高級標準服をなかば強引に導入したことが話題となりました。公教育でありながら保護者に大きな経済的負担を強いることがあってもよいものかと国会でも取り上げられています。

 

このニュースを見て、僕が真っ先に思い出したのがこちらの本です。

 

 アメリカが新自由主義的な教育改革推進によって市場型学校選択制となり、公教育という枠組みであるにもかかわらず、親や地域の経済格差によって二極化に突き進んでいる。そこに至るまでの経緯とメカニズムを丁寧に解き明かした良書です。

 

 

 

 

▪ 目次

 

 

アメリカ公教育の惨状にみる日本との類似点 

 高級標準服導入の件でアメリカの教育システムの課題を想起したといっても、それをそのまま今の日本の状況にあてはめるのは乱暴です。アメリカのような、学校間競争によって教育のパフォーマンスを向上させようという市場型学校選択制にはなっていないからです。

 それでもなお、類似性を認めてしまう背景には、今回話題となった公立小学校が区内にいくつかある「特認校」のうちのひとつだったことが関係しています。繁華街の一角に校舎があり、本来なら、指定された通学区域に住む子どもたちが通うものが、商業地域で住んでいる子どもが少ないという事情のため希望児童を学区外からも受け入れているのです。

 学区外から受け入れ人数を超える申請があった場合には抽選となります。その点、たしかに公平と言えるでしょう。しかし、高級な「標準服」が選択的ではなく「制服」として位置づけられているとするならば、「特認校」がどれほど教育環境として恵まれたものであったとしても、そのアクセスが区内児童であれば万人に開かれていたとしても、経済的に苦しい層はあえて希望を出すことはないでしょう。

 冒頭の記事には「高額な標準服は、それがハードルになって入学を阻む、『逆選抜』を引き起こす危険性もある」とありましたが、まさに実態としては、そのようなスクリーニング装置としての役割を果たしてしまっているように思います。また、仮にそうした積極的な意図はなかったとしても、今回、現状の日本の公教育の枠組みの中でも選別/排除の機能をもたせることができてしまうのだと「結果的に」示してしまったことの意味は小さくないのではないかと危惧するところです。

 なお、『崩壊するアメリカの公教育 日本への警告』の著者のお知り合いがお子さんを通わせていたセレブ公立学校のPTA年会費は約70万円だったとのこと。地元の学校に縛られることなく他地域の良質な学校に通えるチャンスが与えられるという学校選択制のメリットは、単なる名目と成り下がり、経済格差が教育格差に連動し再生産される状況を追認しているのです。

 

校長の権限の大きさと地域の力による監視

 今回、もうひとつ大きな問題となっていたのが、校長先生が保護者との合意形成や説明責任のプロセスを経ることなく、独断で事を進めたことでした。校長先生のもつ広範な権限についての解説はこちらの記事に詳しく書かれています。

 

  ある1点に権力や権限が集中してしまうシステムは、実行スピードを極限まで上げることができる反面、その1点に瑕疵があると急激に劣化します。今回の件は校長先生に権力集中させている現行システムの脆弱性が露呈したケースと捉えることも可能でしょう。

 では、権力の暴走が起こらぬよう監督し、万一の際には歯止めをかけるような機能はないのか。あるのです。その一部役割を地域にもたせ、学校と地域の連携・協働でのマネジメント体制を推進していこうというのが国の基本的な考えです。

 具体的な制度としては、「学校関係者評価委員会制度」に「学校評議員制度」、さらに地域によっては「小中一貫教育推進事業」や「学校支援地域教育協議会」なんてのもあります。

 …ありすぎ? そうなんです、似た機能をもつ組織がたくさんありすぎてガチャガチャしていて非常にわかりづらい!

 そして、似ているわりには、役割がそれぞれ限定的で、単に委員が意見(評価)を述べるだけだったり、学校運営の "一部についてのみ" 協議する場だったりするのが現状の課題で、それを解決するために、既存の枠組みを活かしつつ、教育委員会や校長に意見を述べることができる一定の権限を有する合議制の機関「学校運営協議会制度 (コミュニティ・スクール)」に一元化しようとしているのがここ数年の流れです。

 

学校運営協議会制度(コミュニティ・スクール)の役割

 学校運営協議会制度(コミュニティ・スクール)の機能としては大きく3点あります。

  1. 校長が作成する学校運営の基本方針を承認する
  2. 学校運営について、教育委員会又は校長に意見を述べることができる
  3. 教職員の任用に関して、教育委員会規則に定める事項について、教育委員会に意見を述べることができる

 これだけの機能があれば、今回報道にあったような大事になる前に、学校と地域の協働による自浄作用によって事態を早期に鎮静化できていたかもしれません。しかし、悲しいかな、 問題となった公立小学校は(というより、その区全体に言えることなのですが)、まだ学校運営協議会制度(コミュニティ・スクール)を導入していませんでした。

 中教審は平成27年12月の答申において、すべての学校が学校運営協議会制度(コミュニティ・スクール)の導入を目指すべき、と示してはいるのですが、平成29年4月段階で、全国の11.7%の小・中学校、義務教育学校(3,398校)の導入に留まっています。

 

地域は学校暴走の歯止めとなるのか

 それでは、仮に、件の公立小学校に学校運営協議会制度(コミュニティ・スクール)が導入されていれば事態は違っていたのか。上述のように、たしかに機能的には校長権力の暴走を止める力は持っていそうです。

 学校評議員制度の評議員が「校長が推薦し、設置者が委嘱」という校長先生の意図を汲みやすい任命方式になっているのに対し、学校運営協議会制度(コミュニティ・スクール)のメンバーは「地域の教育委員会が任命」するかたちとなっています。この点も校長先生への行き過ぎた忖度を回避するためのしくみとして効果があることでしょう。

 しかしながら、地域の公立学校が保護者の経済的背景によって実質的に越境者の選別をはかることに対して、学校運営協議会制度(コミュニティ・スクール)の地域代表メンバーが明確にNOと言えるのか。これに関しては、かなり微妙というか、良心に委ねられる部分が大きい。そう感じてしまいます。

 自分の子や孫が通う学校をできるだけ整った環境にしたい、そのためには学区外から越境してくる児童・家庭に対してはなんらかのハードルを設けてコントロールしたいと思うのは親心でしょう。そしてなにより、学区外から裕福な層や熱心な層が集まり「環境の良い公立学校」と評判になることは、その地域の人に経済的な恩恵をもたらします。学区内の不動産価格が上がるからです。

 文教地区と呼ばれる地域では、不動産の広告にどの公立小学区かの記載が入ること、また名門と呼ばれる公立学校の学区内の不動産にはそれなりのプレミアムがつくことは当然のこととされています。

 かくして日本でも、アメリカに似たかたちの地域間競争に発展していく可能性は十分に考えられると思います。多くの自治体が掲げる学校選択制や特色のある学校づくりの先には、こうした未来が待っているのかもしれません。

 

新学習指導要領における地域連携・協働の位置づけ

 次に、2020年教育改革の新学習指導要領における地域連携・協働の位置づけを確認してみたいと思います。

 こちらが「社会に開かれた教育課程」と題され掲げられている3大理念です。

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 注目いただきたいのは3点目。「地域の人的・物的資源を活用」「学校教育を学校内に閉じずに、その目指すところを社会と共有・連携」という表現が見て取れます。 

 「地域とともにある学校づくり」の推進は、国にとって大きなテーマのひとつで、既存の町内会組織が加入率の低下によって機能不全を起こしつつある中、学校を核とした地域組織の再編・地域力強化に注がれる期待は並々ならぬものを感じます。

 上述の学校運営協議会制度(コミュニティ・スクール)もその文脈の中で大きな意味をもちますし、地域学校協働活動と呼ばれる枠組みの中で、放課後活動支援や土曜日の教育活動支援を行い、地域リソースをダイレクトに教育現場に反映させようという試みも徐々にかたちになりつつあります。

 新学習指導要領でもそうした流れを追うかたちで、教育過程(カリキュラム)を地域実態にあわせて柔軟に編成できるようにするカリキュラム・マネジメントの導入が決まっています。

 

地域力格差が学校教育格差につながってしまう

 学校現場の慢性的なリソース不足が問題となっている中、地域資源を有効活用する取り組み自体は喜ばしいことです。しかし、地域資源は偏在しているという点は見逃すことはできません。

 恵まれた地域ほど、有志の手が多く充実した教育を受けられる。そうした学校はたいてい裕福な地域に集中するため、そのような地域の家庭は子どもを良い学校に送ることができる。逆に、相対的に貧しい地域に住む子どもの学校は地域力を得づらく、次第に活力を失ってしまう。良質な教育環境を求めて学校選択をしよう考えてても、経済的な条件から躊躇しなければならない、あるいは、経済的な条件をクリアしたとしても、運を天に任せ抽選にのぞむしかない…。中長期的な展望をのぞむと、そのような光景が頭に浮かんでしまいます。

 昨今の教員の働き方改革にともなう部活動の外部化・地域移行の議論にも同じリスクがあります。恵まれた地域ほどサービス間の競争原理が働くため良質で安価な外部サービスにアクセスしやすくなる可能性が高くなるからです。

『崩壊するアメリカの公教育 日本への警告』で著者がお子さんを通わせていたニューヨーク地区では、ちゃんと体育館で運動ができる学校がある傍ら、机椅子をどかして教室の中で "体育活動" をするしかない学校があったり、実技科目ごとに専門の講師がいる学校がある一方で、音楽も体育も美術も先生がいない学校があるそうです。

 日本も今後、アメリカと同じ道をたどらないと言えるでしょうか。公教育の公平性が試される岐路に立たされている。そう思わずにいられません。